伝統工芸【越前箪笥】越前箪笥の歴史

法隆寺にある国宝、橘夫人厨子(7世紀末~8世紀初め)の
須弥座(台座)の隅に、『越前』と筆で墨書された落書きがある。
越前から微集された匠の一人で、この厨子の製作にかかわった工匠が
描いたものであると考えられている。

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また、8世紀ごろの『大日本古文書』の『越前国使等解』等の文書によれば、
都から遠い越前国の開墾部落で、収納家具として明櫃と折櫃の
2種類が使用された記録がある。

また、戦国時代では、前田利家が加賀百万石の金沢に入封された時、
利家は、越前府中(現越前市)から職人や商人を連れて行ったと言われている

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越前箪笥が製作されるようになったのは、
江戸末期から明治初期にかけて旦那衆の家に出入りしていた
『指物師』が始りといわれている。

能面などの工芸的な仕事をしていた者や、農業者のうち
手先の器用な者が お膳風呂(水屋)や板戸などを製作しており、
これらが専業化して『指物師※』となった。

※『指物師』の名の由来については諸説あるが、
ホゾや継ぎ手によって材を組むことを「指す」といい、
また「物指し」を用いて細工するからともいわれる。
なので、指物の技術者を指物師と呼ぶ。

越前市(旧武生市)は古来より越の国の国府がおかれ、
北陸地方の政治経済文化の中心地として栄えてきており、
また仏壇の産地でもありその上、 『刃物の町』でもあって、
金具鍛冶には恵まれていた。

※刃物の町=伝統的工芸品『越前打刃物』のルーツにも関係しているかも
しれませんね。

また、『嘉永4年 府中全町家順記』によれば、 当時の旧市街地に
塗師屋12軒が存在し、さらに近隣の河田地区(お隣の鯖江市)は
漆器の産地であった。

※『河田の漆器』=こちらも伝統的工芸品『越前漆器』にも
由来しているかもしれませんね

※『塗師』(ぬし)とは、江戸時代以前から用いられた
漆芸家の古称である。

以上のことが要因となり、明治中期頃には本格的な箪笥造りの職人が
中心になって『タンス町通り』が成立した。
この今もなお続くタンス町通りの存在こそが、伝統技術が受け継がれている
証でもあり、歴史の証明であると考えております。

この様に歴史一つをとってみても、ほかの工芸品(産地)
との関わりが深く、分業生産なども盛んに
行なわれていた可能性があると思います。

※これらの諸説は仮説も含まれており、すべてが実証されているわけではございません。

※重要※
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